ああ、ティグライが・・・ エチオピアの紛争

 

ジャンボ !

この温泉宿プロジェクトをケニアの山間で始める前は、

エチオピアは北部のティグライ州の州都メケレに4年在住し、

「草の根」と呼ばれる日本政府のODAのプロジェクトで

「米を普及させる農業プロジェクトのマネージャーを

現地一人日本人体制でしていた自分。

しかし、、どこ行っても辺境で一人日本人だな、、、俺。。。

まあいい。。。















そのエチオピア北部ティグライ州に

危機が。。。


エチオピアへの渡航中止、外務省が勧告 米国も国外退避を呼びかけ

https://www.asahi.com/articles/ASPC62TTYPC6UHBI005.html


ティグライ州の政党で今までも国で大きな役割をはたしていた

ティグライ人民開放戦線 TPLF がエチオピア政府と紛争になり、現在では内戦というレベルまで発展。

比較的最近の国際ニュースで取り上げられるようになったので、最近始まったことかと思うかもしれませんが、戦争状態になったのは昨年の11月なので、もう1年前のこと。

エチオピア政府に通信網である電話、ネットを遮断され、銀行などのサービスも完全に当時から閉鎖され、食料輸送も止められ、深刻な食糧難のまま1年が経過しているとか。。。

で、数か月前からティグライ勢力とオロモ勢力の反政府部隊が巻き返してきたとのことで、

首都アジス・アベバに侵攻か?と言われているこの頃。









奥がエチオピアの旗、手前がティグライ州の旗

きっと何かの国民の祝日だったのであろうメケレ街中の午後

ニュースからのものかと思うぐらいの、いい写真でしょう、、、

自分撮りです!

エチオピア北部の村で125人虐殺か ティグレ人民解放戦線は犯行否定


https://www.afpbb.com/articles/-/3365488


もちろん自分は昨年11月に紛争が始まった時から状況を知り、以前の同僚ティグライ人たちにメールを送ったりしましたが、カナダに移住した一名以外からは未だに返信が来ていません。

その1名もティグライに残した家族やらと全く連絡がとれていないと。。。
何度かメッセージのやりとりをしましたが、
状況は悪化するばかりなのでメールもそれ以来途絶えたまま。。。



メケレ中心部、カダマ・オヤネ付近の路上マーケット




本投稿に載せる写真はすべて当方がティグライに滞在中に撮影した

数百枚の写真を使用、転用一声かけていただけると嬉しいです


最初来たときは、「地の果てのような場所」に来た、、、と思えたもの。

だって、アフリカの最も上の海のすぐ先はイエメンという、、、、場所と

日本人ではほとんど知ることがないような独特の文化。

こんな世界があったのか。。。と。

でも、

住めば都というのか、

ティグライ人の独特の文化は遠い異文化でありながら、

どこまでも濃く、なかなか興味深いもの。

そしてティグライの人々、皆、人がいい。

英語があまり通じない場所というおかげで、ティグライ語も大分マスターし、

地の果てのような場所ではあるので外国人でティグライ語を話す人って

あまり居ないので、、、とことん優しくされるし。。。

現地での日々が益々楽しくなり、あっという間の4年間。

今思うと

千夜一夜物語 のような、、、

時折、脳裏に浮かんでくる思い出。














中世のごとく石畳で覆われた街並みで馬車が現役。





パかッ パかッ と馬車が街を走る音がよく似合う街。







夜はどこも灯が弱く、

こんな様相





どこに行っても薄暗い、

元社会主義国の暗闇、、、

と呼んでいた夜の街






飲み屋、バー文化はさかん

これまたエチオピア独特の雰囲気ありすぎ、、、、

肩を揺らして踊る姿 が恰好いい。



限りなく乾燥した気候は、

アフリカというよりもアフガニスタンやら、あのあたりの環境に似ているのでは?

と思わせられる、とことん乾燥した空気。人の洋服を触ったりすると、よくパチン!と静電気が発生します。


石畳の街並みは時々はっとさせられるような美しい姿で目の前に現れてきます。






































自分が居た時のような、















平和で美しいティグライの日々が、


また戻ることを、当時を思い出しては、祈っています。

いつかティグライの絶景の地にアースキャンプ第二弾を、、、

という数名のティグライ人と約束した夢。



まだ諦めていませんから。


待ってろよ、

ティグライ。


ヤガ・ニェレイ (ありがとう)



コメント